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2024/05/10

縁(えん)ちゃんのひとり言 ~母の他界と母の最期に教えられた事~2024.5月号

お便り

皆さん、こんにちは『縁ちゃん』ことメテックス建築事務所 遠藤です。

近年各所で起こった自然災害で被災された方々にお見舞い申し上げますとともに、被災地の一日も早い復旧、復興を心よりお祈り申し上げます。

今月号ですが・・・

大変プライベートな話で恐縮ですが、実は先月の4月17日に私の母が他界致しました。通夜及び葬儀にはたくさんの方々にご弔問、ご厚情を頂きまして本当に感謝しております。今回、正直なところ書こうか、やっぱりやめようかと随分迷いましたが、最期にいろいろ勉強させて頂いた事や、せっかくこんなコラムを書かせて頂いているので供養のつもりで書こうと決めました。

母の名前は「木内久子」といいますが、私が20歳の頃に今の義父(おやじ)と再婚をした為に遠藤ではなく木内姓を名乗っていました。再婚当時は大人の事情もあってか、かなり強引であまりにも情熱的な家の出方をした為に、私とは仲が良くありませんでした・・・(笑)

再婚といえば聞こえがいいですが、俗にいう「かけ○ち」ってやつでしょうか(^^;

母が私と住んでいた家は、静岡市清水区宍原という非常に田舎の村で、田舎にありがちな全ての話が筒抜けみたいなところでしたからすぐに話は広まりました。そんな田舎は、周りの家のプライベートな事や親戚関係に関してみんながみんな非常に詳しいので冠婚葬祭があった時等はみんなが助けてくれたり、手を差し伸べてくれます。私はそんな環境で思春期を過ごしました。今の若い人達からするとプライベートに介入されるのは一番苦手な事でしょうから、年配の方々に何かいわれると「田舎は嫌だ、うるさい、面倒くさい」とみんな街に出てしまい、どんどん過疎化してしまっていますが。

その当時の私は、身勝手な母に対して腹を立てていましたし、母とはもう絶対に交わる事はないな!と思っておりました。言い訳ではありませんが、やる事なす事全てにふてくされていて、文句ばっかり言っていました。母方の親戚が心配してTELくれても出なかったり、当時は携帯電話がありませんでしたから、勤め先にまでTELをくれましたが無視していました。当時は地元のネジ製造会社の工員でしたが、仕事上でもちょっとの事でイライラがつのり、その後に工場長と口論になり会社も退職しました。「お袋なんて冗談じゃない!!」が口癖でした。今考えると、工場長は非常に優しい方で、人格者でしたから、申し訳ない事をしたなぁ~と思っていますm(__)m

退職をしてぷらぷらしていた時に、私の師匠である親方に声をかけられ、建築板金職人の世界に弟子入りする事になりました。当時コンビニもありませんでしたから、食べる事には本当に困りましたが、親方が弁当、夕食はこっちで用意するからとお世話になりました。しかし私のふてくされは収まらず、約1年間はひと月に6日くらいしか働きませんでした。当然お金もなく毎月のように給料を前借し、いつ首を切られてもおかしくない状況でした。後々に、女将さんから「あの時私は、早く良二を首にしなよ!と進言していたけど、お父さん(親方)が『あの馬鹿もそのうち分かるから黙ってろ!』と言っていたんだよ」と話を聞きました。ただ女将さんと子供たちは私が原因で、相当とばっちり食っていたそうですが・・・(^^;

そんな親方は、私が朝寝坊して遅刻をしたり、兄弟子にガツンと怒られた時に限って「良二、今夜一杯行くか?」なんて誘ってくれました。ある日いつものように、お袋の悪口を言っていると親方が「良二、親子なんてそんな簡単に切れるもんじゃないぞ。腹が立つかも知れないけど、ひとつの事で全部否定しない方がいいぞ。」と言って頂きました。

その時、自分では親の悪口を言うけど、他人に言われると「何であんたに親の悪口を言われなきゃならないの?」と腹が立つことに気付きました。血縁とか親子とかってそういうものなんだなと教えられました。

地元宍原でも、そんな境遇の私をみんなが笑ったりしている時に、私が「マーちゃん」といって慕っていた兄貴分の「真澄さん」も親方と全く同じ事を言ってくれていました。この2人の言葉は、苦しくて苦しくて仕方なかった思春期に凄く救われましたね・・・。

母は79歳(行年81歳)で最期を迎えましたが、約20年前から人工透析をやっておりました。月・水・金の週3回で1回あたり約3~4時間かけて透析をしていました。母は、真澄さんの家族には「私はあんなことしたから、罰が当たったんだね」なんて言っていたそうです。母は、私が中学の時に子宮筋腫と腸捻転、高校3年の時に胃がん、その後に腎不全(人工透析)、くも膜下出血、と病気という悪い糸を持って生まれてきたような人でした。ひとつ治ればまた病気になってと。私が母を許せて、普通に優しくなれたのは実はここ15年くらいなんですが、それまでずっと確執がありました。やっぱりどこか許せなかったんですね。

ある日ふと「私はもうすぐ50歳で、最近体重も100kgを超えて凄く不健康であるはずなのに、なぜ病気ひとつしないんだろう?」って思った事がありました。その時ハッと「もしかしたら、私のそれはすべてお袋が背負(しょ)っているのかも・・・」と思ってしまいました。精神世界のような話で、そうでないかもしれませんが、もし本当にそうだったら「私はなんて罰当たりの考え方をしていたんだろう」って悩んだ事がありました。実はその数年後に妹を亡くします。お袋からすると自分が病気になることより逆さを見る事は相当辛い事だったと思います。私は妹とも仲が悪かったのですが、亡くなってみて何でいつも喧嘩ばかりで、一度でも話を聞いてやれなかったんだろうと凄く悔やみました。妹の時は突然のショックから自分を責めてしまい、1年くらい立ち直れませんでした。その経験から、妹に「慈悲(じひ)の心」「許す心」を学びました。屁理屈は言うけど、本当は凄く器の小さい自分にそこで向き合う事ができました。母に対してこのままだとまた後悔する事になる、けんかして10年も10年。仲良く10年も10年だと思いました。しかしやっと優しくなれた時は、既に病気で普通に旅行に連れて行ってあげる事も難しく、美味しいものを食べさせてあげる事も出来ず、「俺、今まで何やっていたんだろう!」って、また悔んじゃって。でも義父(おやじ)とずっと事業も支えてくれていました。

山梨県の割りと近い所に住んでいましたから、とにかく顔を出そうって決めて、なるべく行くようにしていました。『親孝行したいときには親はなし』といいますが、私には親孝行できる親がいたのに・・・。

母の最期は、義父(おやじ)が、こっちが恥ずかしくなってしまうくらい優しくて、なんかステキな光景を見させて頂きました。まだ母と旅行に行くつもりだったらしく、「車いす仕様の自動車を購入したとこだったんだよぉ、納車前に死んじゃったけどな・・・」と。

私は嫁も孫も見せてあげられなかったけど、義父(おやじ)の方のお兄ちゃん、お姉ちゃんには、実子の私でもやれないなぁというくらい最期を優しく、丁寧に、立派に送って頂きました。優しい旦那さんに見送られて母は本当に幸せだったと思います。母のお陰で、正直なところ人生遠回りをした感もありますが、私がこんな性格なのも、こんな性分(しょうぶん)なのもみんな母のお陰だと思います。「おやじの事はちゃんと大事にするからね。私を産んでくれて、妹を授けてくれて、ありがとう」

今月はここまでです。ここ最近寒暖差が激しいですね、皆さんお身体ご自愛下さい。

最後にお得な情報をひとつ・・・GWに正月の能登地震でご縁が出来た富山県に行ってきました。まだまだ復興半ばでしたが、チューリップで有名な砺波(となみ)市の名物 大門(おおかど)素麺を買ってきました。強いコシが特徴です。今月は『大門素麺』を5名の方にプレゼント致します、ふるってご応募下さい。事務所へ直接お電話かホームページのお問合せフォームに住所、氏名、TEL番号、メールアドレスを記載し『大門素麺』希望と記載してお申し込み下さい。ご応募の締め切りは、毎月25日です。電話054-288-0033

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